2015年03月19日

5日目。ラフ人の村

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アカの村を過ぎて、滝に行った。そこから、急な山道を歩いて、ラフの村に向かった。サイモンさんがふざけて山道を駆け上ると、Mも一緒に駆け上っていってしまった。よくそんな体力があるとあきれた。Mは受験勉強中も毎日2キロ泳いでいたのを思い出した。

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ラフ人の村

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この家に泊まった。

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家畜や犬がいたるところにいた。

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猫もいた。

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子どもたちにタイ語で話しかけたが、通じなかった。

サイモンさんによると、この村ではタイ語は通じないので、サイモンさんもラフの言葉で話すと言う。しかし、この家の人たちと、サイモンさんの会話は、タイ語がずいぶん混じっているように、聞こえた。
(翌朝、Mと朝ごはんを食べているときに、家の女主人が、お土産用の民芸品を並べ始めた。私が、「いくらですか?」とタイ語で聞くと、「30バーツです。」とタイ語で返ってきた。実際は多少は通じるようだ。)

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夜はサイモンさんが、いろんな話をしてくれた。しかし、タイ共産党やクンサーや国民党軍の話などが中心で、Mには良く分からなかったのではないかと思う。

サイモンさんが引き上げ、照明を落とすと、真っ暗で何も見えなくなった。疲れていたので、すぐに寝てしまった。

夜中、犬の鳴き声で目が覚めた。一匹の犬がどこかで吼えると、それに呼応して村中の犬が吼えあった。それが一しきり終わると、こんどはどこかで鶏が鳴き、村中の鶏が鳴きはじめた。そしてまた犬がどこかで吼えはじめた。それを聞きながら、隣の蚊帳のMは眠っているのだろうか、と思った。真っ暗で何も見えなかった。私は色んなことをくよくよ考えて、なかなか眠れなかった。

posted by やなぎす at 14:46| Comment(0) | 日記

2015年03月18日

5日目。アカ人のブランコと日本の鳥居

今日から、トレッキング。チェックアウトをしに下に降りていくと、ガイドのサイモンさんがすでに待っていた。私を見ると手を振って、「相変わらずハンサムだ。」と軽口を叩いた。サイモンさんには三年前、私一人でチェンライに来た時、ガイドをしてもらった。覚えていてくれたようだ。

トレッキングの行程はツアー会社に確認をして、荷造りもそれに合わせてしていた。ところが、念のため、サイモンさんに確認するとまったく違うと言う。サイモンさんとツアー会社の関係はそんなに良好でも密接でもないようだった。ともあれ、サイモンさんの車に乗って出発した。トレッキングの開始だ。

サイモンさんは、車を運転しながら、隣のMに英語でローイ・クラトンの話をはじめた。Mは話があまり分からないようだったので、「ローイ・クラトンは、日本語では、トーローナガシだ。」と口をはさんだ。サイモンさんは、面白がって、「トーローナガチ、トーローナガチ」と繰り返した。

タイに固有のお祭りが、日本にあるとは思わなかったのだろう。この後も、英語では説明的にしか表現できないものが、日本語だとそのまま自然に訳されることが何度もあった。

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市場によって、買い物をした後、サイモンさんの家に行き、荷造りをやり直した。そこから、エレファントキャンプあたりまで車で行って、近くの集落で降り、歩きはじめた。

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最初は気楽に歩いていたが、

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だんだん私は遅れていき

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動けない

一二時間くらい歩いて山を越え、モン(Hmong)人の村についた。そこで、食堂に入って、パッタイを食べた。Mとサイモンさんは眠かったらしく、そこで眠ってしまった。よくこんなところで眠れると感心した。

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またしばらく歩くと、アカ人の村についた。

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入母屋造りの千木のある屋根で、古い日本の屋根と同じだ。

アカ人の村を少し歩いていくと、土手の上に、木の枠のようなものが並んでいる場所があった。サイモンさんは、これは、毎年、儀式の時にブランコとして使うと言った。

私は、きっとこの「ブランコ」には鳥が止まっているに違いない、と思った。急いで土手を登って見ると、確かに居た。横木の上には、鳥の彫刻があった。これは、ブランコというより、鳥居なのだ。

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このブランコはアカの言葉では、ロコンと呼ばれる。アカ人の説明によれば、神をつれて、または、神の使者として村に鳥が来る。その鳥が村の入口で止まるのが、このロコンであるという。(『倭人の源流を求めて』(森田勇造)による。)

日本の神社の鳥居は、ある種の門として扱われ、それがなぜ「鳥居」と呼ばれるかは明らかでない。しかし、これがアカ人のロコンと同起源だとしたら、意味は明らかだろう。神の使いの鳥が止まるので鳥居だし、注連縄(しめなわ)はブランコだったのかもしれない。

現在タイの地に暮らすタイ人やアカ人はかつては中国雲南省のあたりに居た。さらにその昔は、そこから揚子江を下ったあたりにいたと考えられている。一方、日本に稲作をもたらした人々は揚子江の下流域からやってきたと考えられている。

中国古代において、漢民族が黄河周辺のみに存在し、揚子江周辺への影響力を持たなかったころ、揚子江流域ではさまざまな民族が、存在し、互いに影響を与え合っていた。独自の文明も発達した。(その文明の全容はいまだ明らかでないが、たとえば徐朝龍『三星堆・古代文明の謎』)

その文化圏に於いて、のちにアカ人と呼ばれる人々と倭人と呼ばれる人々が、共有していた文化が、鳥居なのではないか。そんな想像をした。

それから、男女の性交を表す像もあった。これはロコン・パトムと呼ばれ、世界の成り立ちを説明するものらしい。アカの村ではロコンとロコン・パトムが一緒に置かれるようだ。

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posted by やなぎす at 12:23| Comment(0) | 日記

2015年03月16日

4日目。チェンマイからチェンライへ

ゲストハウスをチェックアウトし、チェンライに向かう日だった。

早めにチェックアウトする予定で、9時前に荷造りを終えると、Mは
「少し一人で散歩したい。」
と言って、部屋を出て行った。私は、部屋でMを待つことにした。

Mは歩いて10分くらいの市場に行くと、言っていた。30分くらいで戻るだろう、と私は思っていたが、Mはなかなか帰ってこなかった。

チェックアウト時間の10時ころになると、他の客たちは次々と出ていき、掃除の人たちばかりになった。心配になってきた。Mはちゃんと地図が読めるので、かんたんに迷子になるようなことはない。トラブルがあれば、手助けを求めるくらいの英語力はある。ゲストハウスのカードを持っているから、トゥクトゥクで帰ってくることも出来るはずだ。どうしたのだろう。

11時近くになると、掃除の人がこまったように部屋の前でうろうろし、部屋の中をのぞき込んできた。私は、意を決して、受付に手助けを求めに行った。
「誰か一緒に市場まで探しに行ってほしい。」
と言うつもりだった。浮かない顔で状況を説明すると、受付の女性には、
「彼女はきっとどこかで遊んでいるのだ。チェックアウトは午後1時でいいから、そんなに心配するな。」
と笑われてしまった。

一人で市場へ探しに行った。しかし、広い市場をうろうろしたところで、見つかるはずはなかった。12時になっても帰ってこなかったら、チェンライに行くのは取りやめにしよう。宿泊を延ばして、明日からのトレッキングはキャンセルしなければ、などと考えながら宿に戻った。

部屋に戻ると、Mが居た。11時半ころに帰ってきたと言う。市場で買い物をして、その後、日本人の男に声をかけられたので、ついて行って、ビールを飲んでいたのだと言った。

宿を出て、バスターミナルに行き、長距離バスの切符を買った。買えたのは15時発のバスだった。チェンライに着くのは、18時半くらいだろう。

二時間半ほど暇があったので、昼ご飯を食べてから、交代で周辺を散歩した。

401.JPG カオムーディーン(?)

それも飽きて、二人でベンチに座っていると、外国人のカップルが私にスマホを渡して、写真を撮ってくれと言ってきた。私は使い方が分からないので、Mに渡すと、三人で盛り上がっていた。

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チェンライでは、宿はすんなり決まった。

急いで洗濯屋に行って、朝までにやってくれるよう、下手なタイ語で頼み込んだ。おばさんは、しぶしぶと
「じゃあ明日朝九時までに仕上げるよ。」
と言ってくれた。助かった。

405.JPG 宿からのながめ

その後、Mと食事に行った。Mはあまり辛くない、タイ料理以外が食べたいと言った。タイ料理と洋風料理を出すレストランに行って、ビールを飲みながらメニューを選んだ。Mはサラダという英語の表記に惹かれて、ヤムウンセンを頼んだ。そしてMは、なぜか勢いで、
「スパイシー」
と注文してしまった。めっちゃ辛かった。

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posted by やなぎす at 19:33| Comment(0) | 日記